保城広至『歴史から理論を創造する方法 ―社会科学と歴史学を統合する』勁草書房、2015年

f:id:honkatachi:20161129124918j:plain社会科学の方法論を主題とする書籍は数多くあるが、多くが理論的な議論に終始しており(これは決して批判されるべきものではないのだが)、資料・現象に接し、論文を書くという具体的な行為としての研究活動を想定したものは存外少ないように思う。本書は、諸領域で展開された方法論を、社会科学と歴史学の統合という観点から俯瞰する書としても議論に富んだ良書であるが、なにより私にとっては、論文を書く際の態度を考えるための教科書として、強く印象に残った一冊だった。

社会科学の領域で歴史学的な見地をとろうと考えている学生にとって興味深いであろう書なのはもちろん、本書のことばを借りるならば「方法論初学者」でも読めるような配慮が非常に丁寧になされており、それこそ理科学系の友人にも薦めたくなるほど、魅力的な一冊だったと思う。

 

歴史研究と社会科学の理論研究との間には、一種の「棲み分け」が確立している。言ってしまえば、一次資料を広範に渉猟して新事実を提出する歴史研究者、その二次資料を利用して理論構築を行う社会科学者という構図が、そこには根強くある。そして、現実を理論に無理やり押し込む社会科学者、自らの研究対象に埋没し広い見地からそれを捉えるメリットを軽視する歴史学者、といった図式のもとで互いが互いを批判している[i]。保城の関心は、両者の批判を検討したうえで、その統合、つまり歴史分析を理論化するための方法論を論ずることにあった。

この問題意識のもと、法則定立的nomotheticな社会科学/個性記述的ideographicな歴史学という二分法の批判的検討、諸領域における「説明explanation」概念の相違の指摘、歴史分析の必要条件としてのアブダクションという推論、そして仮説を検証するための全事例枚挙と二段階の事例選択法の提案、因果関係の記述の具体的方法としての「過程構築」と総括としての分類表による複数事例の比較、へと議論は進み、最後は保城自身の研究をひとつのモデルケースとして提示することで締めくくる。

 

特にここで取り上げたいのは、第3章「帰納/演繹 アブダクション」である。アブダクションという言葉だけが独り歩きしているような状態のなか、寡聞にして初めて、社会科学における推論としてのアブダクションを明快に著述した議論に出会った。保城によって、アブダクションは以下のような形式で提示される。

  • われわれの信念や習慣から逸れるような、変則的な事実が観察される。
  • しかし仮にある「仮説」が正しければ、その事実が生じるのは当然のことだろう。
  • したがって、その「仮説」が真であると考えるべき理由がある。

誤解を恐れずに以下のようにまとめたい。既存の理論や仮説に従って資料や現象を分析するとき、その理論や仮説の段階では把握しきれていなかった資料・現象に遭遇することがある。保城のアブダクションは、既存の理論や仮説の先に、まさにその変則的な資料・現象を説明しうるような仮説(作業仮説)を立てるということにある。従属変数(被説明変数)自体をまず明らかにした後に、独立変数(説明変数)を柔軟に改変可能にしておくことを可能にする推論なのだ(仮説演繹法hypothetico-deductive methodとの違いは、第一に、この点にある)。このアブダクションの意義は、ある事実を先行研究の見解とは異なったかたちで提示し、その結果、従来の直感や通説と異なっていれば、なぜ生じたのかと問い、新たな因果関係を解き明かすことが出来るという点で、歴史学の記述様式と社会科学の記述様式を統合したものとして説明される。

 

私に寄せて言い換えるならば、以下のようになるかもしれない。私たちは歴史に向き合う時、現代に生きる私たちに根差した直感や慣習(あるいは理論)を日常的にそうするのと同様のありかたで、行使している。たとえば、民主主義とエリート主義の衝突という見立てを、国会前のデモを語るのと同じように、明治の帝国議会に見出す人がいるとしよう(先日、友人がこういった観点からレポートを書いていた)。これは、特殊現代的な見立てを用いたこと自体によって批判されるのではない。だが、保城のアブダクションが示す可能性は、私たちが資料を読むうえで依って立っている自らの理論的枠組みを(時に現代という時制に強く拘束されており、意識が難しいであろうが)意識することで、その枠組みと矛盾する箇所を、従来は見逃されていた箇所として提示し、かつ新たな枠組みを作業仮説として組み立てうるという可能性である。これこそが、保城が歴史分析を理論化する方法として示した方法論の一側面と言えるだろう。

仮説を支持する記録を、諸資料のなかに探すという――スピーチやディベートの準備と類比される――方法とは一線を画し、私たちの直感や仮定が資料のなかで崩れ落ちるその瞬間が見て取れるような研究は、やはり惹かれるところがある。(過程の追跡と過程の構築)

 

なんとも浅薄な説明になってしまったが、どうか面白さの一部でも伝わればと思う。より具体的になる4章以降も面白い。比較政治をはじめ、いわゆる政治学political scienceの方法論に通じた著者の文体は、具体例も多く、衒いのない読みやすいものとなっている。広範な議論を扱っているため、記述に厚薄があるのは否めないが、あとは読者がいかに議論を掘り下げるかであろう。教科書として、入門書として、あるいは議論の端緒として、ここにお薦めしたいと思う。

(秋平)

 

[i] 保城がB.ムーア『独裁と民主政治の社会的起源』の比較歴史分析から議論を始めていることを考えても、この構図はわかりやすい。8カ国それぞれの農村時代から近代化へ至る長い期間を対象にしながらも、ある程度の一般化・理論化に成功したムーアの議論は、社会科学者social scientistsから広く称賛を得た一方で、各国・各時代の歴史学者historianからは冷たい目線とともに多くの批判が向けられたということは、想像に難くないだろう。