尾原宏之『娯楽番組を創った男 丸山鐵雄と<サラリーマン表現者>の誕生』白水社、2016年

 

NHK「のど自慢」を作り出したのは、丸山眞男の兄だった。この丸山鐵雄の人物研究が本書のテーマなのだが、焦点があてられるのは放送局における<サラリーマン表現者>のプロトタイプとしての丸山鐵雄である。

新聞社、テレビ局、出版社などに勤務する、記者、プロデューサー、ディレクター、編集者は、「表現者」と聞いて想像される小説家や音楽家とは異なるかもしれないが、少しずつ自分の表現を混入させてパッケージを作る、れっきとした表現者であるというのが尾原の主張だ。尾原はそれを<サラリーマン表現者>と呼んだ。

 

本書の興味深さは、NHKのディレクターとしての経験を持つ著者が、この<サラリーマン表現者>という自意識の芽生えを鐵雄に見て取る点にあるのではないかと思う。

日中戦争に際し、本来は単に面白いものに過ぎない演芸に「指導性」を注入するという「国策」が、放送局に積極的な役割を与え<サラリーマン表現者>を可能にしたが、その「指導性」を否定する丸山鐵雄という<サラリーマン表現者>が現れた。大衆には「寛ぎと癒し」も必要であるとして、直接的な「指導」番組ではない、娯楽番組の必要性を訴えた鐵雄は、「指導性」という組織の論理の内側から、その「指導性」を否定したという点で、革命的だったというのが尾原の見立てだろう。

 

尾原が終章において、現代のメディアを取り巻く現状に触れながら、鐵雄を「売れる売れないを超越したところにある自己の思想を持っている」人物と評しているのは看過できない。

尾原が鐵雄に期待していたのは、組織のなかにありながらも、「みずからの表現」を志す「表現者」像であった。<サラリーマン表現者>という表現には、NHKという組織での経験をもつ尾長自身の抱く理想像が、多分に反映されている。

 

一方で、随所にみられる、尾原が鐵雄へむける醒めた目線も指摘しなければならないだろう。「あとがき」において、尾原は「結局のところは安定したサラリーマンであり続けた鐵雄に対する憎悪と嫉妬の念が湧」く一方だったと書く。ここには、NHK勤務を辞め、日本政治思想の研究者としての道を選んだ尾原の姿が垣間見えるかもしれない。

戦中から戦後にかけて、純粋な理想化を拒否する鐵雄の姿が露呈する。鐵雄は自らを大衆の一部と考え、大衆に「敵愾心」を見出した。そして「敵愾心」一色の放送へと切り替わっていく(<自己=大衆>の陥穽)。戦後も鐵雄の資本主義批判は変わらない。最終的に、尾原は「『大衆ラジオ』の帰趨」と題して、鐵雄の敗北を指摘している。結局は、鐵雄が「のど自慢」と対置して批判した美空ひばりこそが、興行界における確固たる地位を手に入れることとなるのだ。鐵雄が「指導性」と同様に忌み嫌った資本主義的な音楽生産機構こそが、戦後の中心となった。

 

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fake newsやpost-truthといった単語が話題になっていると聞く。ここでは再び、「指導性」と「大衆性」という問題が、鐵雄の時代とは異なったかたちで、議論される余地があるだろう。鐵雄の時代には、「国策」に代表される「指導性」を主とする組織に対し、「大衆性」こそが<サラリーマン表現者>の思想でありえた。一方、現在では「大衆」に「売れる売れない」という点が組織の論理となり、そこにとらわれない、世間に伝えるべきものが模索される。確かに、戦中の「世論に惑わず」といった価値観を無批判に受け入れていたことへの反省から、現代のメディアにおいて「指導」という言葉が使われることはめったにない。しかし、「真実(事実)を伝えなければならない」という言葉は、「人々が求めているから」という根拠を失った途端、寄る辺を失うようにみえる。その先には、真実(事実)を求める少数者へと対象を限定するか、あるいは「大衆は真実(事実)を知らなければならない」という指導性を認めるかの、いずれかしかないのではないだろうか。

尾原が理想と非難の両方を見出した本書の鐵雄には、今だからこそ読みかえされるべき要素があるように思う。

(秋平)