トランプ現象を読む

 トランプの時代がついに始まった。

「時代」の切れ目は得てして同時代人にはわからないものである。「時代が変わった」という感覚を過大評価すべきではないのかもしれない。しかし、予期しえなかった(あるいは目を背けてきた)事態の出現を前にして、何かが変わろうとしているという悪い予感を拭いきれないのである。差別的な発言や、時代を巻き戻したかのような過激な政策、そしてフェイク・ニュースの氾濫。「底が抜けた」と言うべきだろうか。

批判し超克すべき対象として捉えてきたアメリカが、やはり常に心のどこかにおいて「手本」であったということに、逆説的に気付かされる。そうであるからこそ、羅針盤を失ったかのような無力感に苛まれる。

とはいえ、全ての現象に原因があり、起源があるのであって、全くの予想外というのはありえない。既存の「知」からこの現象をどう解読できるか。思いつく範囲でいくつか参考になりそうな本を挙げてみたい。

 

まずはイギリスのEU離脱やトランプ大統領の当選など、昨年の政治の波を論ずる際にほぼ必ず登場した「ポピュリズム」という言葉から。使えばわかったような気になる言葉であるが、その実、定義は極めて曖昧で、注意を要する言葉である。ポピュリズムの解説としては、吉田徹『ポピュリズムを考える』がわかりやすい。吉田は民主主義である限りポピュリズムの発生は必然的なものであると論ずる。それは突飛な意見のようにも見えるが、民主主義の思想の成り立ちを考えれば自然なことである。古来、民主主義(デモクラシー)という言葉は、衆愚政治とほぼ同義の語として忌避されるべきものであった(このあたりについては読むべき政治思想の「古典」が多数あるが、その紹介は力に余る。詳しくは民主主義論の入門として傑作である森政稔『変貌する民主主義』を参照されたい)。貴族主義由来の議会主義と無理やり組み合わせることによって、微妙なバランスのもとで民主主義の暴走を抑える仕組みとして開発されたのがいわゆる代議制民主主義であって、長い歴史から見れば比較的新しい(待鳥聡史『代議制民主主義』も良書)。多数決や政治参加など、代議制民主主義における「民主主義」の系譜に属する概念のみに着目する限り、ポピュリズムを批判する根拠はない。

 

 

 

ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 NHKブックス

ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 NHKブックス

 

 

変貌する民主主義 (ちくま新書)

変貌する民主主義 (ちくま新書)

 

 

 

 

 

では、どうすればいいか。佐藤卓己の議論は一つのヒントにはなるだろう。理性的な討論を経た意見である「輿論」(よろん)と大衆の感情的な気分である「世論」(せろん)は、戦前においては区別されていたという(『輿論と世論』)。両者の区別は容易ではないが、「世論」を批判するためにも、その足場として「輿論」に立ち返るべきではないかと佐藤は論ずる。正直なところ、一時期論壇をにぎわせたこの『輿論と世論』は、視点こそ面白いが、解釈に牽強付会な点も目立ち、やや説得力に欠ける。ただ、総力戦体制における「世論」の言論空間となった国民雑誌の鮮やかな分析である『『キング』の時代』などと併せて読めば、その問題意識は明晰に浮かび上がる。

 

 

輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書)

輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書)

 

 

 

『キング』の時代―国民大衆雑誌の公共性

『キング』の時代―国民大衆雑誌の公共性

 

 

 

筆者も佐藤卓己の分析に主要な点では同意する。しかしまだ超えるべき壁は残されている。その一つは、社会の分断をどう考えるのかということだ。佐藤が言うように、「輿論」を形作る「ブルジョア的公共性」に参入するには「財産と教養」という入場券が必要である。では、それを持たない人たちは政治から疎外されてしまっていいのか。

 

別に構わないではないか、という古市憲寿の主張も一つの答えである。最近では幾分落ち着いたかのように見受けられるが、一時期はテレビのコメンテーターとして引っ張りだこであった古市には、やはりそれ相応のセンスの鋭さがある。『絶望の国の幸福な若者たち』で曰く、確かに経済的な格差は存在するが、そもそもネットが発達して娯楽にお金はかからないし、友人同士でバーベキューに行けば小さな「幸せ」が感じられる。そうであるからこそ、客観的な経済状況にもかかわらず、若者の主観的な幸福度は(実際の調査でも)極めて高い。そこを無理に変える必要はない、なまじっか政治に関心を持って、かつての大学闘争のように暴力的な運動につながる方がよほど危険ではないか、と。実のところ、ほぼ同じ世代の「若者」として、この分析は確かに感覚に合致するのだ。ただ問題は、いつまで「絶望」的な状況にありながら主観的な「幸福」を保てるかである。政治とつながる安定的なチャンネルがなければ、限界に達した時点で過激な言動とともに暴発する。それこそがトランプ現象が示したもの(そしておそらくは日本の将来像)と考えることは出来ないだろうか。

 

 

 

 

前回の『娯楽番組を創った男』に対する秋平クンの書評から引用。「その先には、真実(事実)を求める少数者へと対象を限定するか、あるいは「大衆は真実(事実)を知らなければならない」という指導性を認めるかの、いずれかしかないのではないだろうか。」なるほど、大衆の指導、か。佐藤卓己も「輿論」の指導に期待をかけていた。しかし、「輿論」あるいは真実が何であるかという選択の資格が誰にあるのだろうか?(トランプはCNNの報道を「フェイク・ニュース」だといって批判している!)そして、「エスタブリッシュメント」による「上から目線」の「指導」をもはや誰が聞くだろうか?残された課題はまだ多い。

 

(春香)