『異郷の友人』—生命は物質の罹患した中二病である

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デビュー作の『太陽』を読んで衝撃を受けて以来、一応毎作読んでいるのですが、『太陽』以降はどれも微妙… いえ、部分部分にグッとくるものはあり、特に「聖/幻想」と「俗」の混ぜ方はとても好きなのですが、全体としては浅薄に感じてしまいます。

『異郷の友人』の良い所と悪い所を眺め、『太陽』と比較しながら、その理由を自分なりに突き止めていきたいと思います。両作品についてのネタバレありです。

 

悪い所①出だしとオチ

途中で2016年2月という日付が出てきた時点で警戒はしていましたが、東日本大震災で回収するラストの流れは安直に過ぎます… 一文目が「吾輩は人間である」なのも、流石にどうかと思います。 「正確に言えば、燃えているのではない」から太陽の核融合の話→金→風俗へと話題をつなげ、最終的に太陽を金に変えて人類が滅ぶという納得かつ驚愕の締めへと導いた『太陽』とは雲泥の差です。

悪い所②設定

『私の恋人』から続いて転生ものです。それ自体は構わないのですが、問題は、壮大な物語の描写の中にポンと俗を投げ入れる事で味わいを生み出していた上田さんのユーモアが、やや滑り気味だという点です。『太陽』では、錬金術、赤ちゃん工場、偽物のキティちゃん人形、風俗、Twitterと縦横無尽に高尚なものと卑近なものを行き来しながらも、通底するものがあると納得させられたのに対し、『異郷の友人』に唐突に出てくる2ちゃんねるやOWARAIには、安易に奇を衒おうという意図しか感じられません。

悪い所③用語とセリフ(の中二病感)

例えば『異郷の友人』の26ページには、次のようなセリフが出てきます。

生命とは物質が罹患した病である

恰好良くはありますし、このセンスは大好きなのですが、大したことを言っていない、あまりに虚しいセリフです。重要なキーワードとして何度も出てくる「大再現」という言葉もそうです。要はキリスト教で言うところの終末/復活を言い換えただけであり、『太陽』での「大練金」と違ってオリジナルの単語を使う理由がないです。

良い所①設定とセリフ(の中二病感)

散々罵ってますが、やはり上田岳弘さんはかなり好きな作家です。上田さんお得意の「聖」と「俗」の転換は、ともすれば単なる中二病に陥る諸刃の剣ですが、この作品でもところどころ巧く機能していると思います。例えば、主人公は転生によりいくつもの人生をこなしてきたわけですが、彼はかつて石原莞爾であり、ユングであり、テレンティウスであり、ゴータマ・シッダールタの愛弟子であった、というのは、どうやってその発想に至ったんだ、という感じでとても良いと思います。で、上の「生命とは物質が罹患した病である」というやや空虚なセリフも、発したのが石原莞爾であるというのは、ちょっと面白い。

良い所②ユーモア

『太陽』でも、春日晴臣がデリバリーヘルスを頼むシーンはかなりユーモラスでしたが、『異郷の友人』でも、作品に出てくる宗教の三種の神器として、"太陽"の冠、"恋人"の襦袢、"惑星"の笏という、作者の過去作品3つ(『太陽』『惑星』『私の恋人』)とひっかけたアイテムが出てきて、ニヤリとさせられましたし、107ページの

年収八百万を超えると寿司が止まって見え始めるそうだが、

という文章などにクスリとさせられました。まあしょうむないのですが、こういうしょうむない所が面白い作家というのは貴重だと思います。とくに文学では。

良い所③表紙

表紙を褒めると内容を貶しているみたいですが、この表紙(三瀬夏之助さんという方の「J」という作品らしい; http://www.imuraart.com/artist/archive/post_18.html)、すごく良いですよね。本文を幽かに思わせるところがありますし、このタイトルから登場人物のひとりの呼び名がとられてるっぽいですし、多分この表紙は上田さんが選んだもので、上田さんのセンスの片鱗が垣間見えるものだと思います。

 

微妙な作品が3つ続き、『太陽』はまぐれだったのかな、と思い始めていましたが、こうして落ち着いて振り返ると、決して上田さんの良い所(ユーモアや、「幻想」と「俗」の転換)が涸れたわけではなく、大枠のところ(設定や出だし、オチ)がイマイチというか安直で、全体として浅薄な印象を与えている、のだと気づきました。憶測ですが、『太陽』が良過ぎて、同じような壮大な小説を読者や編集者から求められて、表現したいものが特にないままに、急いで、小説を書く為に書いているのかな、と思います(偉そうだな…)。

『新潮』2013年11月号に『太陽』が載って、『惑星』が2014年8月号、『私の恋人』が2015年4月号、『異郷の友人』が『新潮』2015年12月号ですから、半年に1作程度。某ベンチャーの役員もしてらっしゃるそうですし、結構なハイペースですよね。やはり、急くあまり、『太陽』の焼き直しになってしまっているのだとしたら、普通に読んでエンタメとしても普通に面白いという極めて貴重な作家の作品が無駄撃ちされてしまったということで、とても勿体ないです。

ですが、『双塔』という短編が『新潮』2016年1月号に載ってからは一年近く沈黙してらっしゃいますし、次作は『太陽』並の傑作が発表されるのではないかと楽しみに待っております。